忘れえぬ想い







<香穂子SIDE>




香穂子の記憶は色々と検査などを試みてきたが、やはり戻る事はなかった。

けれど、身体的には特に異常もないのでとりあえず退院はいつでも出来る。

なるべく早く、という香穂子の要望で退院の日は明日という事で決まった。

「・・・それでは、明日は退院だから荷物などの整理は今日の内にして下さいね」

主治医の男性はにっこりと微笑むと香穂子に『おめでとう』と言って病室を出て行く。

パタンと扉が閉まると香穂子は溜め息を一つ吐いた。

「どうしたの? やっと退院出来るって言うのに嬉しくないのか?」

花瓶の花を取り替えていた柚木は香穂子の浮かない表情を見て不思議そうに尋ねる。

それに対して香穂子は首を横に振るが、その表情は憂いを帯びたまま晴れない。

「そういう訳じゃないんですけど・・・・」

何も思い出せない不安を柚木に愚痴るのは簡単だ。

だけど、そんな弱い自分は嫌だし―――何よりも柚木を失ってしまうのは耐えられない。

今の自分はここを出てしまったら右も左も解らない状態で、ある意味入院したままの方が楽なのは確かだ。

それでも退院したいと思うのは、単純に柚木の側に居たいから。

彼の隣が香穂子にとって唯一の拠り所であり、全てなのだ。

だからその柚木に拒絶された時、自分は一体どうすれば良いのか・・・・。

こんなにも彼に依存している事が知れたら重荷に思われるかも知れない。

そんな恐怖心が日ごとに増してゆき、今じゃ身動きが取れないほど大きく育っていた。

ベッドのシーツを握り締めたまま何も話さない香穂子に柚木は苦笑して、彼女の後頭部に手を回し自分の方へ引き寄せる。

「・・・わっ!?」

柚木の肩口に自分の顎が当たり、耳元では吐息が掠めるほど近くに彼を感じる。

慌てて身を引こうと捩ったら、腕に力が籠められてそれを制された。

「お前、いま俺に対して失礼な事を思ってただろ」

「失礼な事・・・・?」

意味が解らなくて首を傾げると、柚木は少し身を離して言う。

「例えば―――俺がお前を捨てる、とか・・・」

反射的にビクリと身を竦ませれば代わりに深い溜め息が返ってきた。

「やっぱりね。 指輪まであげたのに何でそういう余計な心配をするんだ?」

「だって・・・。 私、未だに記憶戻らないし・・・・梓馬さんだって嫌でしょ?」

「嫌って言うより不愉快だな」

覚悟はしていたが、はっきりと不快の色を表すその口調に胸が抉られる。

「失礼にも程があるだろ。 俺の気持ちを勝手に決めるなよ」

「えっ?」

思った言葉と違くて柚木を見上げると、刺々しい口調とは反対に優しい瞳をしていた。

そして眦に溜まった涙をそっと唇で拭ってくれる。

「俺は何度も言った筈だぜ? 記憶の有無は関係ないって。 思い出なんて幾らでも作れるんだから・・・」

解った?、と諭すように言われて大きく頷くと自ら柚木に抱きついた。

「ごめっ・・・なさ・・・っ、私・・・不安でっ・・・!」

嗚咽を交えて話すと柚木は小さい子供を宥めるみたいに、ポンポンと軽く背を叩いて聞いてくれる。

それがとても安心出来て、香穂子は更に泣いてしまった。

「・・・・じゃあ、一つ約束をしようか。 香穂子が不安にならず済むように」

「ん。・・・な、に・・・・?」

香穂子はまだ治まらぬ嗚咽を殺して柚木の言葉に耳を傾ける。

「来週の日曜日、俺の家に来る? ・・・・正式な婚約者として家族に紹介したいんだ」

「・・・・・っ!!」

一瞬、思考が停止した。

頭の中で先程の言葉を何度も反芻し、数秒経ってから漸く理解する。

「お答えは? お姫様」

問われても香穂子の中で答えは一つしかない。

「行きますっ!」

満面の笑みだが、涙が残っていたので泣き笑いの表情になってしまった。

それでも柚木は嬉しそうに微笑む。

「・・・ありがとう。 説得するのは大変だと思うけれど、何があってもお前を守ると誓うよ」

その言葉に香穂子もクスッと小さく笑う。

「じゃあ、私は梓馬さんを守るって誓います」

思いがけない言葉に柚木は暫しキョトンとしたが、不意に香穂子を抱き締めた。

「そんな可愛い事を言ってると、本当に離してやれなくなるぜ・・・・?」

「一生、離さないで下さい・・・」

香穂子も柚木の広い背に腕を回し、ぎゅっと抱き締める。

二人は互いの存在を確認するように、そっと唇を重ね合わせた。

「香穂子・・・愛している・・・・」

「私も梓馬さんだけを、愛してます・・・・」

もう一度交わす口付けはとても甘くて、幸せだった―――。







*********








「ふぅ・・・これで全部、かな?」

ボストンバッグのチャックを勢いよく閉めて、香穂子は一息つく。

荷物はそんなに多くはないのだが、衣服類などが嵩張ってバッグの中はぎゅうぎゅうだ。

―――そろそろ、梓馬さんが来る頃だな・・・。

そう思って腕時計を見ると3時半を指していた。

柚木は学校帰りなので平日の見舞いは大体この時間に来るのだ。

コンコン。

ドアが2回鳴り、待ち人が現れ香穂子は嬉しくて扉を思い切り開ける。

今までの寂しさを吹き飛ばすように、目の前の人物に縋りついた。

「梓馬さんっ!」

「・・・えっ、ちょ・・・っ日野・・・・!?」

頭上から聞こえたのは息を飲む音と、かなり動揺している慌てた声。

違和感を感じて見上げると・・・・青みのある髪に、整った顔を少し紅く染めた綺麗な人だった。

(わぁ・・・男の人なのに睫毛長い・・・・)

柚木以外に顔の整った男の人を見るのは珍しくて、思わず細かい所に目がいってしまう。

一般女性としては無理もない行動だが、この場合もの凄くマズイ事に香穂子は気付かなかった。

「・・・・二人とも、いつまでそうしているの?」

一見穏やかな―――しかし、香穂子にとっては恐怖心を煽る声が聞こえる。

恐る恐るそちらを振り返ると、優雅な笑みを携えた柚木が立っていた。

「僕としては、正直もう少し離れて欲しいな」

そう語る柚木の目は決して笑ってなどいない。

香穂子は慌てて身を離すと、月森にペコリと頭を下げた。

「あ、あのっ・・・すみませんでした!」

「いや・・・気にしなくていい」

そっけなく言う彼はまだ少し頬が紅潮している。

(照れているのかな? ・・・何か、可愛いかも・・・)

再び女心を擽られた香穂子は自分の立場を完全に忘れていた。

それを見た柚木は当然面白くなく、一瞬だけ眉をひそめる。

けれど、また猫を被り取り繕うと自然な動作で香穂子の傍らに立った。

距離を縮め、誰にも聞こえない音量でそっと香穂子に耳打ちする。

「お前、後でお仕置きするから・・・・覚悟しとけよ?」

ニヤリと悪辣に笑む柚木を見て香穂子は蒼白して固まる。

だが、その遣り取りは傍から見れば仲睦まじい光景にしか映らない。

そこへフラッシュが瞬いた。

「『恋人たちの愛の密談』・・・。 うん、いい記事になりそう!」

「天羽ちゃんっ!!」

メモ帳に何か書き込んでいる天羽を香穂子は非難の眼差しで咎める。

しかし、全く反省なしの天羽は何時ものように笑って誤魔化す。

「ほらほら、落ち着いてよ。 皆、久しぶりにアンタの顔見れて嬉しいんだからさ!」

まぁ、私はちょくちょく会ってたけどねー、と言う天羽の頭を土浦が小突く。

「なに大人ぶってんだよ。 日野がいなくて一番滅入っていたのはお前じゃねぇか」

「! ・・・ちょっと、それを何で今言うわけ?」

睨み合う二人の間に今度は火原が間に入ってきた。

「でもさぁ、そう言う土浦も元気なかったよな」

「火原先輩っ!!」

少しバツが悪そうな顔で咎める土浦の声を聞かなかった振りをし、火原は香穂子に向き直る。

「俺も香穂ちゃんのお見舞いに行きたかったんだけど、部活もあって来れなかったんだ・・・・」

ごめんね、と謝る火原に対して香穂子は首を横に振った。

「いえ! そのお気持ちだけで嬉しいです」

香穂子がにこっと笑うと火原も安心したように微笑み返す。

そこへ今まで黙っていた志水がやって来て、香穂子の荷物をまとめたバッグを見て口を開いた。

「・・・・香穂先輩。 先輩の鞄、重そうですね」

「えっ? ・・・あぁ、それね。 服とか色々詰めたら意外と嵩張っちゃって・・・・」

溜め息をつきながら言うと志水はその鞄を抱えて言う。

「先輩の荷物、僕に持たせて下さい。 重いものはチェロで慣れてますから」

「いや、でも・・・」

悪いから、と言いかけたが先にそれを制される。

「僕が持ちたいだけなんです。 僕も今までお見舞いに行けなかったから―――せめて、先輩の役に立ちたいんです」

真摯な瞳で告げられ、返答を考えあぐねていると肩に手が添えられた。

後ろを振り返ると月森が少しだけ微笑って頷く。

「任せてあげたらどうだ? みんな君の退院が嬉しいのだから」

そう言われて周りを見渡すと皆暖かい眼差しで香穂子を迎える。

それにジンと心が温かくなって素直に荷物を任せることが出来た。

自分は仲間に恵まれていて幸せだと改めて実感する。

少しでも今の感謝の気持ちを伝えたくてお礼を言おうとしたら、それは柚木の言葉で遮られた。

「・・・そろそろ退室の時間だと思うよ。 さぁ、出ようか」

普段の柚木らしからぬ行動に疑問を感じて香穂子が振り向いたら、あからさまに不機嫌そうな顔をしている。

「どうしたんですか?」

「・・・別に。 こんな事なら俺一人でここに来れば良かったぜ」

そう言い残してスタスタと部屋を出て行った。

騒がしかった病室も今は香穂子一人がポツンと残っているだけ。

「・・・・・どういう意味?」

先程の柚木の言葉を反芻して、漸く柚木が嫉妬していた事に気付く。

どんな時でも余裕を崩さない人が、あんなに感情を露わにするなんて非常に珍しい。

それが自分の事というのなら尚更嬉しく思う・・・・・。

愛されているんだなぁ、と強く感じて視線を指輪に落とす。

相変わらず綺麗に輝いているダイヤモンドは少しだけ柚木に似ていると思った。








**********








いつまでも病室に居る訳にもいかず、皆を待たせてしまっているので香穂子は足早に部屋を出る。

けれど扉を開けたら、直ぐ目の前に立っていた人物とぶつかってしまった。

「いたた・・・・すみません・・・」

顔面を強打し、手で抑えながら謝る。

ドアの近くに立っているのもどうかと思うが、前方不注意だった自分にも非はあるのだから。

けれど相手はフンと鼻を鳴らすだけで何も言わない。

不審に思って顔を上げると、そこに居たのは自分と同い年くらいの少女だった。

「・・・・お久しぶりね、日野さん」




――――ズキンッ

『貴女、邪魔なのよ・・・・』




「っ痛・・・!?」

急に鋭い頭痛が走り、罵りの言葉が甦る。

(なに・・・? 今のは――― )

もっと記憶を手繰り寄せようと思っても、それ以上は何も思い出せなかった。

「あら、私の事まで忘れてしまったの? ・・・まぁ、当然と言えば当然かしらね」

香穂子が何も答えない事を勝手に解釈し、少女はクスリと嫌な笑みを浮かべる。

「私は岩瀬侑子。 貴女にお話しがあるのだけど付いて来て下さる?」

「い、わせ・・・ゆうこ・・・・・」

香穂子は記憶を探るように繰り返す。

勘だけど、この人は自分の記憶が失くなった原因に深く関わっている気がする・・・・。

先程から動悸が激しいから、間違いないだろう。

「ここでは何ですから場所を変えましょう」

そう言って侑子は振り返りもせずに先へ進んでいく。

今は早く柚木たちの所へ行かなければいけないのは解っている。

―――だけど、それ以前に自分は過去を取り戻さなければならない。

香穂子は意を決して侑子の後についていった。










それから数分歩いて、侑子はピタリと足を止める。

「・・・どう? ここと似た場所に覚えはない?」

そう言われて香穂子は辺りを見回す。

着いた場所は薄暗い階段通り。

目を閉じて思い出そうとするとズキンと頭が痛んだ。

「―――ぅ・・・っ」

「大丈夫? 頭が痛いの?」

心配とは程遠い口調で香穂子に近づく。

そっと頬を撫でられ、思わずビクンと身体が竦んだ。

「・・・・知ってる? 人間って今感じている痛みより上回る痛みを感じたら、始めの痛みは感じないのよ」

にっこりと微笑む侑子の笑顔には何か狂気に近いものを感じる。

香穂子は後ずさって距離を取るが、その後ろは階段で足の踏み場がなかった。

侑子はどんどん近づいて、遂に香穂子の目の前へと立つ。


「貴女、邪魔なのよ・・・・」


その言葉と前の記憶がリンクする。

侑子は湛えていた笑みをスッと消し、香穂子の肩をトンッと押した。

ぐらり、と身体が傾いた香穂子の脳裏には当時の恐怖と記憶が瞬時に甦る。

「いやあぁぁぁ・・・っ!!」

目を強く瞑り、訪れるはずの衝撃に備えたがそれは何時まで経ってもやって来ない。

疑問に思い、恐る恐る目を開けると侑子はしっかりと香穂子の腕を捕まえていた。

「ムカついたから脅しただけよ」

香穂子は足に力が入らず、ガクリとその場にしゃがみ込んだ。

それと同時に今までの事を全て思い出す。

「ズルイわよ・・・! 今まで私はずっと柚木さんの事好きだったのに、貴女はいきなり出てきて彼を独り占めして!!
 挙句の果てに、柚木さんを忘れてっ・・・・それでも貴女は彼を独占している・・・・!!」

侑子は蓄積されていたものを吐き出すかのように喚いた。

理論はメチャクチャで、自己中心的で、思い切り理不尽な言い分ばかり・・・・・。

けれど、香穂子はそれを聞いて憤りや怒りなどは感じない。

何故なら、自分と侑子は性格は違えど想いは同じだったから。

恋をすれば誰だってその相手に振り向いて欲しいと想う。

親しくしている子が居たら悔しいと想う。

恋人がいると知れば悲しいと想う。

『愛されたい』と願うエゴは人間なら必ずある感情なのだ。

それを否定する事なんて誰にも出来ない。

しかし、だからと言って誰かに謝って欲しい訳でも、慰めて欲しい訳でもない。

そんな事をされればもっと惨めになってしまう。

香穂子も彼女の気持ちが痛いほど解るから、何度中傷を浴びようが手を上げられても

侑子を通じて、もう一人の自分を見ている気がして何も言えなかったのだ。

―――だけど、一つだけ解せない事がある。

「何でさっき私を助けたの?」

これは自分を貶めている訳でも卑下している訳でもなく、純粋に不思議だった。

『邪魔者が消えるチャンス』・・・・そう思うのが普通だから。

唐突に聞かれて侑子は驚いた表情をしたが、直ぐに自嘲的な笑みに変わる。

質問に答えようと口を開いた時、遠くから階段を駆け上ってくる足音が聞こえた。

それは姿を見なくても誰のものか直ぐに解り、同時に侑子は絶望の色を濃くする。

徐々に音は大きくなり・・・・・・・。

「香穂子・・・・・っ!!」

柚木は急いで来た為、息切れしていたが身体を休める事なく香穂子の元へ駆け寄り、侑子から護るように背へ庇う。

「さっきの悲鳴は・・・? 香穂子に何を―――」

「梓馬さん・・・・・っ!!」

香穂子は柚木の腕をグイッと引いて問い詰めを止めさせる。

柚木が振り返った所で香穂子は静かに口を開いた。

「―――記憶が、戻ったんです・・・・」

「本当に・・・・っ!?」

その告白に柚木だけでなく侑子さえも驚く。

コクリと香穂子は大きく頷くと、柚木は不安げに質問する。

「・・・・じゃあ、今までの記憶は?」

注がれる視線の先は指輪にあり、彼が何を危惧しているのか解った。

「大丈夫ですよ、梓馬さん」

香穂子は微笑んで指にはめているリングを翳す。

それを見て柚木は安心したようにホッと息をついた。

そんな二人をぼんやりと見ていた侑子は苦笑するにクスリと小さく笑う。

「・・・・やっぱり、貴女には敵わないのね。 日野さん」

言った後は柚木に向き直り、深々と頭を下げた。

「色々とご迷惑をお掛け致しました。 これからは『柚木サマ』のいちファンとして応援させて下さい」

「・・・・え?」

戸惑いの色を浮かべた柚木に対し、侑子はそっと微笑する。

「ふふ、もうお二方の前には現れませんわ。 会わせる顔がありませんもの・・・・」

「・・・解った。 それなら僕は歓迎するよ」

柚木も侑子の知る『貴公子の柚木梓馬』になり頷く。

有難う御座います、と呟いた侑子はそのまま階段を下りて行った。

けれど、俯いた頬に光る一筋の涙を見てしまい、香穂子は侑子の想いの強さを改めて知る。

それでも柚木を手離せない自分の強欲さに呆れを感じた。

「お前はあの子に同情しているのか?」

柚木のなかなか鋭い問いに香穂子は緩く頭を振る。

「同情じゃなくて・・・・彼女には幸せになって欲しいなって思います」

「―――つくづく、お人好しだな・・・」

クッと小さく笑って、香穂子を抱き寄せた。

「・・・・お前が無事で本当に良かった・・・」

柚木は抱き締めている腕に力を籠める。

肩が細かく震えていて、『泣いてるの?』と聞いたら『そんな訳ないだろ』と否定の言葉が返ってきた。

だけど、目が少しだけ赤いのは気のせいじゃないでしょ?

今は無理でも・・・・いつかは何でも言い合える関係になれたら良いなって思う。

―――私が精神的にもっと強くなったら、その時は私も貴方を守るから・・・・。






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★あとがき★

長らく休載してて、すいません!!!(土下座)
しかも、予定では5話で終わる筈だったのに・・・・・。
計画性皆無で本当に申し訳ないですっ!!
次の話は、とうとう柚木家へ乗り込みです(え)
更新は早めに致しますね。