忘れえぬ想い







<香穂子SIDE>



香穂子は病室の窓から外の景色を眺めて、柚木の事を考えていた。

ここで目が覚めた時、ずっと手を握ってくれていたみたいだったけれど・・・・その手が僅かに震えていたのを覚えている。

『誰?』って聞いたら瞳が悲しげに揺れたから、傷つけたと思った。

「そうだよね・・・・恋人だった人から『誰?』って言われたら、悲しいよね・・・」

香穂子は一人部屋の病室でポツリと呟いて溜め息をついた。

けれど、本当に思い出せないのだ。

柚木の事も、天羽の事も、家族の事も・・・・・自分の事さえも。

名前はベットにネームプレートもあるし、皆から『香穂子』や『香穂』と呼ばれているから解っている。

――――コンコン。

不意に扉が軽くノックされ、香穂子は驚きでビクリと身体を竦ませた。

まだ突然の音や、人の話し声には身体が慣れない。

その扉から柚木が静かに入ってきて、香穂子に微笑む。

「・・・来たよ、香穂子。 調子はどう?」

柚木は片手に持っていたフルーツバスケットをベットの隣にある小さなテーブルに置いた。

「・・・っあ・・・」

自分も何か言わなきゃ、と思うのに声が出ない。

一人の時はそんな事はないのに・・・・・。

「いいよ、無理はしないで。 事故のショックで人と会話するのがまだ怖いんだろ?」

確かに看護婦や医者が診に来てくれても身構えてしまって上手く話せない。

事故、と言われてもその事自体を覚えていないからよく解らないが、周りがそう言うのならそうなのだろう。

香穂子は戸惑いながらもコクリと頷くと、柚木は優しい手つきでそっと香穂子の髪を撫でた。

「会話は徐々に慣れていけば良いから、とりあえず何か果物でも食べる?」

香穂子は隣にある沢山の果物を見た。

簡単な言葉なら何とか言えるので、指をさしながら答える。

「・・・・リンゴ・・・」

その答えに柚木は小さく笑いながら、リンゴを取って抽斗にある果物ナイフで皮を剥く。

「お前は本当にリンゴが好きなんだな。 昼食の弁当にいつもウサギ型のリンゴがあったからね」

「そうなの・・・?」

「ああ。 俺が一つでも食べると怒ってね―――」

そう言って柚木は香穂子と過ごした日常の事を本当に楽しそうに話した。

それを思い出す事は出来ないけれど、香穂子も笑いながら話を聞いていた。

「・・・・・・やっと、笑ってくれた・・・」

会話が途切れると柚木は嬉しそうに小さく呟く。

「なに・・・?」

聞こえなくて尋ねると、柚木は首を横に振って「何でもない」と言った。

「はい。 リンゴ、剥けたよ」

お皿にはウサギの形をしたリンゴがちょこん、と乗っていた。

「・・・ありがとう・・・」

そのちょっとした配慮が嬉しくて礼を言うと、柚木も笑って喜んでくれた。

この人が恋人で良かった、とそう思う。

柚木だって自分の事や一緒に過ごした思い出を全て忘れられて辛い筈なのに、こうして自分の事を気遣ってくれる。

香穂子は何も思い出せない自分が、悔しくて・・・もどかしく感じた。

「あの・・・ごめんなさい・・・」

「ん? 何で謝るの?」

柚木は二つ目のリンゴを剥く手を止めて香穂子を見た。

「だって、何も覚えてないから・・・」

「それは香穂子の所為じゃないだろう? ・・・・お前は俺の事をどう思ってる? 嫌い?」

突然の質問に少々疑問を感じたが、香穂子は即座に首を横に振った。

嫌いだと思ったら早く思い出してあげたいと思わない。

その答えに柚木は安堵して、香穂子に言った。

「良かった、それなら俺は充分だよ。 香穂子が生きててくれただけでも嬉しいんだから、ね?」

柚木は香穂子の手を取って、そっと口付けをする。

気障な仕草だけど、それが嫌味な程よく似合ってて香穂子は暫く見惚れていた。

心臓が柚木に聞こえそうなくらい高鳴ってドキドキが止まらない。

香穂子は真っ赤になった自分の顔を隠すように俯いて、心の中では愛しさが溢れる。

早く思い出したい、と香穂子はこの日から強く思うようになったのだった。






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<柚木SIDE>



柚木は香穂子が入院してからというもの、ずっと見舞いに来ていた。

だから香穂子の小さな変化も直ぐに解る。

最近、やけに記憶を取り戻す事に積極的な事も・・・・。

それ自体は別に悪い事ではない。

むしろ、良い傾向だと思う。

だけどまた香穂子が無茶をしないか、と気が気ではないのだ。

何が理由で急に積極的になったのかは解らないが、医者から院内の散策許可を得た香穂子はとにかく散歩したがる。

逆に柚木の方が疲れてしまうほど歩くのだ。

ずっとベットで生活していたくせに、どうしてあんなにパワフルなのか柚木は不思議でならない。

けれど、考えてみれば事故に遭う前もバタバタとあちこち走り回っていたので、きっと生まれつき元気なのだろう。

おそらく今日も日が沈むまで歩かされるのだろう、と覚悟をしながら香穂子の病室へと向かう。

歩く事があまり好きではない柚木は正直勘弁して欲しい所だが・・・・。

それでも、柚木の表情は笑顔だった。

最近は柚木が顔を見せると、あの陽だまりの様な笑顔を見せてくれるから。

今までは事故直後のせいか、警戒して人と会話するのを無意識に避けていた。

それは悲しいが、無理もない事だ。

誰だって人に階段から突き飛ばされれば、人に対して恐怖心を抱く。

その上、暴行を加えられたとなれば尚更だ。

例えそれを本人が覚えていなくても、身体が恐れて拒むのだろう。

香穂子の頑なだった態度が大分軟化してきたとは言え、いつまた同じような事に巻き込まれるか解らない。

だから、誓ったのだ。

今度は絶対に香穂子を護る、と・・・・・・・。











「梓馬、また出かけるのですか?」

コートを羽織って病院へ行こうとした所で後ろから祖母に声を掛けられた。

柚木は気付かれぬようにそっと嘆息する。

そして、作り物の笑顔を携えながら祖母に向き直る。

「ええ、後輩のお見舞いに行こうと思っていた所ですが・・・・」

「悪いけれど今日は諦めて頂戴。 話しておきたい事がありますから」

「・・・・解りました」

かなり不本意だが祖母の言う事は絶対、なのが柚木家の掟。

こればかりは柚木自身ではどうする事も出来ないのだ。

苛立ちを綺麗に隠して柚木は祖母の部屋へと歩を進めた。

「失礼いたします」

襖を開けると先に部屋へ行った祖母は正座して待っていた。

柚木は祖母の向かいに腰を下ろすと同じ様に正座する。

少しの間、沈黙があり初めにそれを破ったのは祖母だった。

「唐突だけれど、貴方は国会議員の岩瀬昌也って方をご存知ですか?」

「ええ。 何度か家でお見かけしました」

岩瀬は花をこよなく愛し、華道に関しては評論家も兼ねている人物だ。

数ある華道の流派の中でも特に柚木流を目に掛けてくれている。

それ故、柚木家の大切な客人の一人なのだ。

「そう。 岩瀬先生は貴方をいたく気に入って下さって、先日先生のお嬢さんとのお見合いのお話しが出たのよ」

やはり、と柚木は思った。

今までは別にどうでも良かった話だが、今は違う。

好きな人が居るのに見合いなんてするだけでも嫌だった。

断ろうとした時、一瞬早く祖母が言葉を続ける。

「それに、先生のお嬢さんの学校も星奏なのだそうよ。 岩瀬侑子さんって知っているかしら?」

「えっ・・・!?」

柚木は祖母の出した名前に素で驚いた。

知っているも何も・・・・顔だって一生忘れやしない。

何たって彼女は自分の親衛隊隊長で――――香穂子を階段から突き飛ばした張本人なのだから。

「・・・・と、言う訳で良いですね? 梓馬」

祖母の問い掛けに柚木はハッと我に返った。

「えっ?」

「聞いていなかったのですか・・・?」

「・・・すみませんでした」

祖母は非難した目を柚木に向けて再び話し始めた。

「もう先方とは会食の予約を取ってありますから、次の日曜は空けておくのですよ」

「そんな・・・ちょっと待ってください!」

「口答えは許しません。 解りましたね」

祖母は話は終わった、とばかりに立ち上がった。

「おばあ様! まだ・・・っ」

必死に言い募る柚木を一瞥しただけで、祖母はその部屋から立ち去ってしまった。

ピシャリ、と閉じられた襖を柚木は睨みつけて拳をきつく握る。

こんな見合いは嫌だ、と思うのにその意見すら認められない。

悔しくて、柚木は奥歯をギリと噛み締めた。

「・・・っ、見合いは受けてやる。 けど、アイツだけは絶対に許さない・・・・!」

柚木は襖を見据えたまま、低く殺意を込めた声で呟いた。













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★あとがき★

記憶がなくなっても幸せだった二人。
けれど、突然のお見合い。 しかもその相手は香穂ちゃんを突き飛ばした犯人・・・・。
もし、私が柚木さんの立場なら絶対に勘弁な設定だな・・・(汗)
まぁ・・・殺意って言ってもあくまでもネオロマなので!!
殺人なんて事はさせません。(そりゃそうだ)