朝霧の中、香穂子と仲来は大門の前で別れの名残を惜しむ。

そう、此処までが香穂子の仕事。

少しでもこれを怠れば軽く見られたものだ、と客に怒られる。

だから最後の見送りは娼妓の義務と言っても言い程重要なのだ。

けれど、それだけではない。

娼妓にとっても、この見送りは次の約束を取り付けるチャンスになる。

甘い睦言を囁いて、『寂しい・・・』 と少し涙を見せれば高い確立で

客はまた来てくれる、と花魁の誰かが言っていた。

ここは遊女の手管の見せ所だ、と。

しかし、香穂子にはどうも向いていないようだった。










** 邂 逅 **










「・・・また、是非お越し下さいね。 寂しいですから・・・・」




涙こそ出ないものの、精一杯 『寂しい』 表情をしてみる。

だが、客は決まって苦虫を噛み潰したような顔になるのだ。




「・・・香穂子。 無理に言う必要はない」

「・・・・・・・・・・」




今回も、また失敗したらしい。

元より感情が顔に出やすい香穂子にとって、この手の演技は苦手だった。

それは嘘を生業とする香穂子には大きな枷となっている。

こうして客は一人また一人と去っていくのが常だった。

けれど、仲来だけはその事に文句を言う訳でもなく再びその数日後にやってくる。

きっと彼にとってみれば夜こそが重要で、他は気にしないのだろう。




「まぁ、また来るさ。 例のものをまた改良して、ね・・・・」




瞬間、ゾクリと鳥肌が立った。

露骨に嫌そうな顔をして再び不興を買う訳にもいかず、その場は曖昧な笑みで誤魔化した。

別れの言葉を二言三言交わし、仲来は踵を返す。

香穂子は大門の出口に立ち、姿が見えなくなるまでその背中を見送る。

漸く影が見えなくなると、香穂子もふらりと帰路につく。

足取りが覚束ないのはきっと先程の薬の所為だろう。

仲来はそれを改良して再び来ると言った。

それは暗にまた薬を使用されるという事だ。

・・・・・正直、勘弁して欲しいと思う。

副作用なのだかは知らないけれど、さっきから眩暈はするし、吐き気はするしで歩くのもやっとなのだ。

大門から花音楼までの道のりの半分にも満たない所で香穂子は遂にしゃがみ込む。

動く度に胸の動悸は激しくなり、気分が悪い。

とりあえず、細い路地裏で休憩する事にした。

だが、それは選択ミスだったようだ。




「あれ〜? 君、どこの妓?」

「なに、どっか具合悪いのか?」




突然、背後からは調子の軽そうな男の声が聞こえた。

振り向けば、悪びれた感じ年若い男たちが数人いた。




「俺たちが優しく介抱してやろうか?」

「いえ、結構です・・・」

「遠慮すんなって!」




一人の男が乱暴に香穂子の腕を掴む。




「嫌っ!」




パシンと小気味の良い音をたててその手を咄嗟に叩き落す。

いくら娼妓といえど、客でもない男に軽んじられるのは我慢ならない。

とっくに捨てた筈のプライドは、まだ健在だったようだ。

けれど分が悪いのは明らかで・・・・。

多勢に無勢、ましてや男と女とでは力の差も歴然である。

逃げようとして男達を押し退けても、ふらふらな足取りでは容易に囚われてしまった。




「やだっ・・・放して、放してよ!」

「うるせぇ女だな! 遊女のクセに今更純情ぶんなよ」

「それとも出し惜しみか? 金払わねぇと嫌って?」




男達の下卑た笑いと嘲りに、香穂子は目頭が熱くなった。

悔しい――――。

だが、何も言い返せない自分にも腹が立つ。

確かに自分の身体は多数の客に買われて穢れている・・・・・。

しかし、こんな事を好きでしている訳じゃない。

香穂子は涙目になりながらも、眼前の男達をきつく睨み上げた。




「・・・あんた達にっ・・・あんた達に私の苦しみなんて解りっこない・・・・!!」




こうしなければ家族が助からなかった悲しみも。

あれから二年経って、未だに父も・・・誰も迎えに来てくれない寂しさも。

無理やり引き離されて終わった、恋の痛みも。

この男達はおろか、世界中の誰にも解りっこない。

そう言って涙を流し続ける香穂子を、男達は面倒くさそうに舌打ちした。




「チッ、んとに煩せぇ・・・・。 おい、 誰かコイツの口を塞げ!」




一人の偉そうな男が命令すると四方八方から腕が伸びてきた。




「んっ、んん・・・っ」




口を塞がれ、今度は香穂子が着ている緋襦袢を脱がしに掛かる。

抵抗しようにも手を拘束されているし、体調も良くない為か・・・・力すら入らない。

成されるがままの状態で自分の腰帯が地に落ちるのを見て諦めた、その時。




「・・・おや? 君たち、一体ここで何をしているのかな?」




この場にそぐわない穏やかな老人の声が聞こえた。

聞き覚えのある優しい声。

男達は振り返って相手を睨み付けると、途端に顔を蒼くさせる。




「ゲッ・・・あ、いや! お、大旦那!!」




慌てふためく男達に対し、気品を纏ったその老人は僅かに眉をひそめた。




「若い娘さん一人に大勢で何をしている。 それに、仕事はどうした?」

「あの、その・・・・こっ、これには訳がありまして・・・」

「言い訳など聞いておらん。 早く持ち場へ戻りなさい」




穏やかだけれど有無を言わせない口調で老人は男達を散らせた。

漸く解放された香穂子は帯の無くなった襦袢を胸元でかき合わせ、その場にへたり込む。

もう立っているのも辛い状態で、額には脂汗が滲んでいた。




「・・・君! しっかりなさい!」




香穂子の側に駆け寄った老人に、助けて貰った礼を言おうと顔を上げた。

しかし、香穂子はそのまま表情を凍りつかせる。




「・・・なんで・・・」




蚊の鳴くような声で呟いて、直ぐに顔を伏せた。

愕然とした面持ちのまま、香穂子は何故・・・と、何度も頭の中で繰り返す。

相手は気付いていないみたいだけれど、自分にとっては生涯で忘れる事の出来ない人間の内の一人だ。

それは 『トラウマ』 と言っても過言ではない。

なにしろ彼は、自分たち一家を奈落の底に突き落とした家の当主なのだから。

香穂子はその場に居ても立ってもいられずに、動かない身体を叱咤して反対側へ駆け出した。




「ちょっ、君!?」




驚いた老人の声を無視して、とにかく細い路地の出口を目指して走る。

もう直ぐで出口、という所で突然人がその路地に入ってきた。

人一人が漸く出られるという道に、二人が擦れ違える訳もなく・・・・香穂子は思いっきりその人間にぶつかった。




「・・・っ、すみません。 大丈夫ですか?」




耳元で聞こえる、男性にしては中性的な柔らかい声。

広い胸に、微かに香る花の匂い。

そのどれもが自分は知っている。

いや、 『忘れていない』 という方が適切だろう。

逢いたくて、逢いたくて、夢にまで見た人。

だけど、二度と逢ってはいけない人・・・・・。

香穂子は顔を伏せて無言のまま、その腕の中から逃れる。

そして何も言わず走り去ろうとした腕を反対に取られた。




「・・・・放して、下さい・・・」




香穂子は相手に聞こえるかどうかの小さな声で言った。

同時に、彼の手に力が篭る。




「・・・ねぇ、もしかして・・・」




その声は僅かに震えていたかも知れない。

けれど、香穂子もまた余裕などある訳がなかった。

そうして腕を握られたまま、どのくらいの時間が流れただろう。

たかが数十秒という僅かな間が、何時間にも感じられた。




「梓馬? お知り合いかね?」

後方から歩いてきた老人が不意に彼の名前を呼ぶ。

「おじい様・・・」

彼 ――柚木―― が祖父の方へ振り返ると、掴まれた腕の力も少しだけ弱まる。

香穂子は相手の気が緩んだ隙をついて腕を払うと、その場から逃げ出した。




「・・・! 香穂子っ・・・・!」




悲痛そうに名前を呼ばれても振り向かなかった。

――― いや、振り向けなかった。


あの夜、家族を捨てて柚木と一緒に行く覚悟を決められなくて・・・・。

そして、彼を裏切ってしまったから。


こんな最低な自分を忘れてくれて良いのに、柚木はまだ名前を呼んでくれる。

その事に申し訳なさと・・・・僅かな嬉しさを感じて、涙を流しながら花音楼へと駆けて行く。








だが、香穂子は気付かなかった。

柚木に散らばった唇の痕を見られた事を。

そして、その瞳が今までにないほど暗く剣呑に光っていた事を。

柚木は落ちていた香穂子の腰帯を拾い上げて、微かに口角を上げた。




「・・・花音楼、ね・・・」




クスリと小さく笑みを零して呟いた声は、隣りの祖父が聞き取れない程に小さく・・・・低かった。








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★あとがき★

よーやく黒柚木の兆候が見えてきました。
白柚木も書いてて楽しいんですけどね。
でも、香穂ちゃんと絡ませる時は・・・・やっぱり調子狂うな・・・。