願ったものは、普通の幸せ・・・・他は何も要らないのに・・・・。

それさえも私には過ぎる願いなのでしょうか・・・・。






** 追 憶 **







「・・・ちょっと、出掛けて参ります」

「それならばお供致します。 この時勢に女人の一人歩きなど危険ですので」



履物をはいて、門に手を掛けると後ろから不意に声をかけられた。

香穂子は軽く溜め息を吐いて振り返る。




「大丈夫よ、兼房(かねふさ)。 直ぐに人と会うもの」




兼房、と呼ばれた20代前後の男は日野家の家臣であり、香穂子の教育係でもある。



「直ぐだろうと、途中で何が起こるかは解りません」



こうして何かと口うるさい人ではるが、それは香穂子の為を想っての事だと理解している。

それは非常に有り難いのだが・・・・今回ばかりは付いて来られては困るのだ。



「大丈夫だって! 一人で行きたいから絶対に付いて来ないでね!」

「あっ・・・お嬢様!?」



逃げるように駆けて行き、不審に思われたかも知れない。

兼房の呼び止める声を無視して香穂子は走り続けた。








――― 今日は、久し振りに彼との逢瀬の日。

公けに出来ない関係だからこそ、兼房にも誰にも知られる訳にはいかなかった。



「梓馬さん・・・!!」



梓馬、と呼ばれた男は紫檀の長い髪をサラリと風に靡かせて香穂子の方へと振り向く。

慌しく走ってくる姿を確認すると、琥珀色の瞳が柔らかく細められた。




「おいで、香穂子・・・」




両手を拡げて待ってくれている彼に香穂子は嬉しくなって飛びついた。

それを優しく受け止めてギュッと抱き締めてくれる。




「誰にも見られなかった? ・・・なんて。 僕はどちらでも構わないけれどね」

「ダメですよ! 私達の家の関係をご存知でしょう?」




対して、彼は苦笑するだけ。

家とは 『日野家』 と 『柚木家』 の事を指している。

両家は華道の名門で通っているが、『日野家』 の祖父と 『柚木家』 の祖母・・・・つまり、両家の頭同士の仲が非常に険悪なのだ。

以来、その子供の代になっても関係は修復されず未だにいがみ合ったまま。

香穂子も幼い頃から両親などに柚木家の悪口を聞かされていた。

きっとそれは柚木も同じだっただろう。

それでも香穂子と柚木は互いに惹かれ合ったのだ。

一目見た瞬間に恋に落ちた。

そうして、二人は時々人目を忍んで逢瀬を重ねている。

僅か短い時間だけれど、この一瞬一瞬が大事な思い出だ。

香穂子は柚木の胸に凭れていると、彼はそっと身を離す。

見上げると柚木はとても真剣な表情をしていた。



「・・・・香穂子、よく聞いて。 今の現状では僕達の想いは決して受け入れてもらえない」


最悪、誰か別の人との縁談を持ちかけられる・・・・と柚木は言葉を続ける。



「そんな・・・嫌です・・・!」

「僕だって他の男に君を渡したくなんてないよ。 だから、僕達が変えるんだ」

「・・・・変える?」

「そう。 柚木と日野の関係を僕達の代で修復させるんだよ」

「・・・そんな事・・・」



絶望的とも言えるあまりにも低い可能性の話に、香穂子は顔を俯けた。

柚木はその顎を指で掬って額に軽く口付ける。



「大丈夫。 僕を信じて」

「梓馬さん・・・・・」



にっこりと返された笑顔を見ると何でも出来そうな気がした。










「・・・・そう、梓馬が日野家の次女と・・・。 解りました、下がって結構です」

「はい」



密偵を退室させると今度は障子側に向けて 『誰か居ますか』 と声を掛ける。


「はい」


声だけが聞こえ、障子の向こうに人影が揺れた。



「例の計画を急遽進めて下さい」

「承知致しました」



フッと陰が消えて、柚木の祖母は途端に忌々しげな表情になる。


「あの家の娘と馴れ合うなど・・・・許しませんよ、梓馬・・・」


その呟きは誰にも、勿論柚木にも届かなかった。










***************










「どういう事だ、これは・・・・っ!?」



香穂子が目覚めると、その朝はやけに騒々しかった。

近くに居た兄に事情を聞けば苦々しい表情で口を開く。



「どうしたも何もない・・・・うちの門下生や弟子達が、揃いも揃って辞めたんだよ・・・・」

「えっ!?」

「残ったのは兼房と・・・何人かの使用人だけで他は・・・・」



咄嗟に振り返って兼房を見上げると、優しい眼差しで香穂子の頭をそっと撫でてくれた。

『大丈夫ですよ』 と、労わってくれる手の温もりに耐え切れず香穂子は涙を落とす。

そんな時に聞こえた声は激昂した様子の祖父の怒声だった。



「あの家・・・柚木の仕業に決まっとるっ!! 全て金で買収したんだ!」



何かあると直ぐに 『柚木』 の名が挙がる。

それは何時もの事であり、その度に香穂子は哀しかった。



「そんな訳ないっ・・・!」



気付けば香穂子も祖父に負けないくらいの声で反論していた。

そして、その一言で家族は水を打ったように静まり、誰もが信じられないという目で香穂子を見る。

きっと何故香穂子が柚木家を庇うのかが理解出来ないのだろう。

そんな中、祖父が一際怒りを携えた瞳で香穂子を見下ろす。



「誰に誑かされたのかは知らんが・・・・現にここの弟子達はみんな柚木家の方へ行ったのだぞ?」


『これでも違うと言い切れるのか』 と言われ、香穂子は愕然と目を見張った。

いくら信じていたい気持ちが強くても、現実はそうさせてくれない。

失意にペタンと床に座り込むと、祖父も悔しそうに呟く。



「門下生も取られた今、面目も体裁もあったもんじゃない・・・・日野の家は、終わりだ・・・・」


終わりという言葉を、何処か遠い場所の事のように呆然と聞いていた。




――― だが、これは序章に過ぎない。

本当の歯車はここから狂いだす、という事に香穂子はまだ気付いていなかった。










元より一般家庭よりも裕福な家で生まれ育った香穂子は、一日たりとも食べ物に困った記憶などない。

それが、もう5日も何も飲み食いしてはいなかった。

まだ17歳である少女の身の香穂子にとって、その5日間は正に地獄だ。

自室の布団に横たわっているだけでも体力が削られていく。

このまま死ぬんだ・・・・と、客観的にぼんやりと思った。

その時、閉められていた襖が音も無く開けられる。

そちらの方に目だけ向ければ、父の着物の裾と足が見えた。



「辛いか? 香穂子・・・・」



頷く気力もなく、ただ静かに父の話を聴く。

父も痩せた我が子を労わるように撫でて、独り語る。



「こんな目に遭わせてしまって、本当にすまない・・・・」



そう言う父の手は、僅かに震えていた。



「お前には生きていて欲しい・・・・・だから・・・・・」



最後の言葉は吐息と同化し、聞き取り難かったけれど香穂子には届いてしまった。



「・・・吉・・・原・・・?」



縋るように瞳を向ければ反対に逸らされる。

吉原と言えば、色街で有名な場所だ。

沢山の遊郭があり、そこは全て幕府公認の売春宿である。

そんな所に父は行けと言ったのだ。



「・・・・私、要らないの・・・・?」



ポツリと呟けば、父は背けた瞳を香穂子に戻して真剣な顔で怒鳴った。



「そんな訳ないだろうっ・・・・!!」



そして、ギュッと強く抱き締められる。



「誰が実の娘を売りたいものか! ・・・だが、これしか道は無いんだ・・・許してくれ」

「・・・父様・・・」

「必ず家を立ち直して身請けしてやるから。 それまでの辛抱だ・・・・」



香穂子も父の襦袢にしがみ付いて、コクリと頷く。

嗚咽を押し殺して震える肩を優しく叩いてくれた記憶は一生忘れない、と胸に誓いながら―――。










***************










――― 時刻は丑三つ。

普段ならば、もうとっくに眠っている時間だが今日は寝ないつもりだ。

眠くない訳ではないが、この家に居られる最後の日くらいは眠りたくなどなかった。

数十時間後には吉原の遊郭へ・・・・・・。

縁側に座って月を仰ぎながら香穂子はそっと嘆息する。

思い浮かべるのは、愛しい人の笑顔。

彼はいつも微笑みを絶やさない人だったけれど、記憶の中の彼は一段と柔和な笑みを浮かべていた。



「・・・・梓馬さん・・・・」



この名前が消えてしまわぬよう心に刻み付ける。

誰に向けるでもなく、ひっそりと呟いた筈なのに応える声が不意に聞こえた。



「香穂子・・・・」



ガサリと音がした方を振り向けば―――― そこには柚木が立っている。



「何でっ・・・」



香穂子は目を見張って叫びかけるが、その口を彼の手によって塞がれた。



「しっ、静かに」



柚木は辺りを見渡すと抑えていた手を外す。



「君を迎えに来たんだ。 一緒に逃げよう」



その言葉に一番衝撃を受け、元より大きい瞳を更に見開く。

どうして。

脳裏に疑問が浮かぶ。

香穂子が吉原に行く事は家族内での秘密になっているのだ。

それを何故、柚木が知っているのかが解らない。

香穂子の思っている事が伝わったのだろう、柚木は僅かに視線を下げた。



「・・・・先に、どうして僕が知っているのか・・・説明しないといけないね」



そうして柚木は香穂子の知らない数日間を語りだした。

先ず、柚木の祖母に二人の交際がバレたこと。

それが切欠となり、元より計画されていた日野家を陥れる罠を祖母が急遽実行したこと。

更には、香穂子の身売りの件も祖母の計画の内だと知った。

たくさんの事実を一度に聞いた香穂子は声を失い、ただ呆然とするばかり。

柚木は痛ましそうな表情をして香穂子の頬に手を伸ばす――― が、触れる前に脱力させる。



「すまない。 君をこんな目に遭わせておいて顔を見せられた義理じゃないのは解っているんだ・・・・。
でも、香穂子が吉原に売られるって聞いて・・・・居ても立ってもいられなかった」

「・・・梓馬さん・・・私・・・」

「君を他の男になんて渡したくないって言ったでしょう。 お願いだ、僕と一緒に来てほしい」



真摯な瞳で抱き寄せられ、香穂子も身を委ねようとした時―――・・・・。



「いけません」



柚木の腕をやんわりと解いて背を向ける。

本当は一緒に逃げたい。

けれど、脳裏に家族の顔が蘇り・・・・裏切れる筈もなかった。



「私が行かなければ家族が困ります・・・・」

「選ばなければ仕事は幾らだってある。 香穂子が一人で犠牲になる必要はないでしょう?」

「・・・それは・・・じゃあ、梓馬さんの家は? ご家族だって・・・・」

「僕は三男だから、いざとなれば兄がいる。 それに、おばあ様がした事は許せない」

「それって・・・!」



香穂子は柚木の言葉に驚いて振り返った。

視線が絡み合って、彼はふわりと微笑む。



「家とは決別するよ」

「そんな・・・・どうして・・・?」

「香穂子と離れたくないだけ。 それが叶わないのなら、家を捨ててでも一緒になる道を選択する」



柚木が本気で言っているのを痛い程に実感し、香穂子は涙を零した。

売られると知らされた日からずっと泣く事を我慢していたのに、こんな言葉は反則だ。



「先の事は解らないけれど、絶対に後悔だけはさせないから。 だから・・・・僕を選んで欲しい」



柚木は笑顔を消して、もう一度手を差し伸べる。

拒む術を持たない香穂子は小さく頷いて、そっと柚木の手に自分の手を重ねた・・・・・。










あれから二人で走り続けて――― 着いた場所は幼い頃の 『秘密基地』 だった。



「すごい・・・・まだここ取り壊されていなかったんだ・・・」

「そうだね。 こんな廃墟、もう無くなってても不思議じゃないけれど、今はあってくれて助かったよ」



昔はよく二人で此処を 『秘密基地』 と称して遊んだものだが、今となっては逢瀬の時にも使用しなかった。

場所も人里を離れていたから通うのも不便だった所為もある。

けれど、今回ばかりは身を隠すのに最適だった。

一応屋根もあるので雨風だって防げる。



「此処なら簡単には見付からないだろうし、香穂子は少し休むと良い」

「梓馬さんは?」

「僕は少し偵察してくるよ。 直ぐに戻るからここで良い子に待っててね」

「はい」



香穂子が頷くのを見届けると、柚木は額に軽く口付けて外へ出て行く。

しん・・・と静まった廃屋に一人だけとなり、香穂子は寂しさを紛らわす為に眠りに就こうと身体を横たえた。

余程疲れていたのか眠気は直ぐに訪れた。

どの位ウトウトしていたのか解らないが、再び扉の開く音で目が覚める。



「梓馬さん・・・・?」



まだ眠い目を擦りながら名前を呼ぶと返答はなかった。

怪訝に思い、瞳を凝らして見る。

月が逆光して相手の顔までは見えないが、着ている着物が柚木の衣ではない事に気付く。



「・・・・誰ですか?」



警戒しながら尋ねると漸く相手の方も口を開いた。



「私は柚木の使いの者です。 貴女と若君を探して此方まで参りました」

「・・・・っ!」



幾らなんでも見付かるのが早い。

やはり、此処まで最初から後を付けられていたのだろう。

それならば柚木はどうしたのだろうか・・・・?

そんな香穂子の疑問は見通していたのか、聞きもしない内に答えてくれた。



「若君ならば別の者が未だ捜索中です。 それよりも、貴女はご家族の心配をなされては?」

「・・・・どういう意味ですか?」

「貴女は知らないのでしょうが、日野の家は多額の借金を抱えているのですよ」

「・・・・っ!?」



そんな話は今まで聞いた事もなかったし、素振りだって見えなかった。



「信じられないですか? でも事実です。 そうでなければ貴女が売られる必要が無いでしょう?」



この男の話を鵜呑みにする訳ではないが、確かに一理ある。



「借金というのは・・・どの位の額なのですか・・・?」

「さぁ、そこまでは。 ですが、余程切羽詰まっているのでは?」

「・・・・・・」



『・・・だが、これしか道はないんだ・・・許してくれ』

不意に父の言葉が蘇る。

あの時の表情からして、借金の話は本当なのかも知れない。



「余談ですが、借金を返せない者の末路はご存知ですか?
女人は売られ、男は殆どの場合が解体・・・だそうですよ。 人間は金になりますからね」

「そ、そんな・・・・」



香穂子は愕然と呟いた。

男は追い討ちのように畳み掛ける。



「まぁ、これはあくまで一例ですよ。
日野家の場合は貴女が家に戻れば済む話だ。 これでも帰る気にはなりませんか?」

「・・・・私は・・・・」



答えあぐねていると、男は僅かに舌打ちした。

そして、その口調はあからさまに冷ややかなものへと変わる。



「帰る帰らないは貴女の勝手ですけれど、若君まで巻き込むのは迷惑です」

「巻き込むだなんて・・・! 梓馬さんは―――」

「ご自身の意思でしょうね、少なくとも今は。
ですが、数年後は解りませんよ? ましてや、あの方の未来は約束されているも同然だ」



香穂子は反論出来なかった。

確かに自分と駆け落ちなどしても、百害あって一利もないのだ。



「それに・・・・・」



男の言葉はまだ続いている。

だが、この言葉こそ香穂子は大きく衝撃を受けた。



「それに、若君には既にご婚約者がいらっしゃいます」

「・・・・っ・・・・」



それは何時も香穂子に付き纏っていた不安そのものだった。

家同士がいがみ合っている中、香穂子と柚木の縁談など持ち上がる筈もないのは解りきっていた。

だからこそ、いずれ離れなければならない時が来る。

そんな事は解りきっていた事なのに。

自分は何時しか叶わない夢を見ていたようだ・・・・。

夢は必ず覚めるもの。

そして、しっかりと現実を見なくてはならない。

涙なんて見せたくなかった。 特にこの男には。

香穂子はしっかりと前を見据えて言った。



「・・・・私、家に戻ります」

「やっと、ご決意されたのですね」



男はニヤリと口角を持ち上げる。



「それではご本宅までお送り致しましょう」

「結構です。 ・・・梓馬さんに 『申し訳ありません』 と、お伝え下さい」

「解りました、必ずお伝え致します」



後ろから答える声が聞こえても振り返りなどしなかった。

あの男の顔など見たくないのもあるけれど、それよりも早く此処を出たい気持ちが強い。

もし、柚木に会ってしまったら・・・・直接別れを言うのは耐えられないから。

裏切りだと思われても構わない。

香穂子はひたすらに走りながら元来た道を進む。

途中で息が切れ、しゃがみ込んだ。

乱れた呼吸を整えながらも嗚咽を洩らす。

暫くそうして泣いていたら頭上に大きな影が差した。

涙でぐしゃぐしゃな顔を上げると、そこに居た人物は――――。



「・・・・兼房・・・・」

「全く、貴女というお方は・・・・こんな薄い襦袢一枚で出歩いてお風邪でも召されたら」

「かねふさ・・・・っ!」



香穂子は小言の途中にも関わらず兼房に抱きついた。

その唐突な行動に驚いたが、兼房はふと目元を和らげて香穂子の肩を抱き寄せる。



「傷付いて泣く位ならば元から逃げ出さなければ宜しいのに・・・。 本当、世話の焼ける子ですね」



言っている内容は普段と変わらない小言だが、口調は限りなく優しかった。



「さぁ、帰りましょう」



促されて香穂子は小さく頷く。

ごく自然に手を繋がれて、不意に昔を思い出す。

道に迷って泣いていると必ず兼房が迎えに来て、小言を言いながらもこうして手を繋いでくれたのだ。

今まで独りで心細かった香穂子にとって、それは凄く嬉しい行為だったのを思い返す。

懐かしい思い出に癒されながら歩いていると、目の前にはもう自宅が見えた。








「・・・・ありがとう、兼房。 ここで良いよ」


自室の前まで送ってくれた彼に礼を言って、繋いでいた手をやんわりと解く。

未だ心配だと言いたげな表情をする兼房に 『もう大丈夫』 という意味を込めて微笑んだ。

上手くは笑えていないかも知れないけれど・・・・どうか突っ込まないでほしい。

それを察してくれたのかは解らないが、兼房は特に何も言ってはこなかった。



「では、私はこれで・・・・」



一礼し、踵を返した彼の背中を香穂子はじっと見つめる。

もうこの光景はきっとこれが最後だから。

姿が完全に見えなくなると、香穂子はがくん・・・と膝を脱力させた。

握った拳の上に、ポタリと一滴の雫が落ちる。

涙なんて、とっくに枯れたかと思ったのに。

今日は泣いてばかりだ・・・と自嘲しようとしたが、胸が痛すぎて出来なかった。

借金に苦しんでいる家族の事よりも、何も告げずに置き去りにした柚木の事だけが気掛かりだった・・・・・。










***************










「・・・ん・・・」


朝方の日差しを受けて目が覚める。

ぼんやりと瞳を開けると、妙に瞼が重く感じた。

目元に手を遣ると指先が濡れる。



「―――夢、か・・・・」



香穂子は寝乱れた赤い長襦袢の胸元を簡単に直して起き上がった。

今更、あんな昔の夢を見るなんて・・・・自分はまだ何かを期待しているのだろうか。

この廓―― 花音楼 ――で暮らし始めて、もう2年もの月日が過ぎた。

水揚げだってとっくに過ぎたし、ここでの生活にも慣れてきている。



「・・・・本当に、今更・・・・」



香穂子はもう一度、ポツリと呟く。

どんなに過去を嘆いても、あの日々には戻れない。

それに・・・・・。

ふと香穂子は自分の身体を見下ろした。

白い肌には昨夜の客が付けた紅い跡が色濃く残っている。

そう、これが現実なのだ。

今の自分は柚木と一番遠い所に居て、二度と逢う事もないだろう。


「・・・梓馬さん」


香穂子は数年ぶりに、その名を口にした。











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***************

★あとがき★

初のパラレルで、遊女ネタ! 公式設定は色々無視しています・・・・(汗)
今回は序章なので、何故香穂子が売りをしているのか・・・という回想編から始めました。
なので、少し・・・・いや、かなり長くなりました。

そして、吉原の事や遊郭について勉強も色々しましたよ!
とりあえず本文に出てきた 『廓』 と 『水揚げ』 から説明しますね。
廓 (くるわ) → 遊郭の別名。 遊女屋が集まった所のこと。
水揚げ (みずあげ) → 遊女が初めてお客を取って、お金で身体を売ること。

それから、『花音楼』 はそのまま 『はなおとろう』 と読みます。 かのんって読まないで下さいね・・・(苦笑)
他にも吉原用語が出ましたら、あとがきで説明致します。
ダラダラと長くなってすみません・・・・!!(土下座)