朝―――。 香穂子は通り慣れた通学路をゆったりとしたペースで歩く。 それはいつもの光景。 しかし、気分一つでこんなにも景色が変わるのか、と香穂子はぼんやり思った。 日常とは違うこと。 夢だったと言って忘れたいものは今も尚、身体のあちこちに散っている。 紅い、紅い――― 裏切りの痕跡が・・・・。 A c t 2 . 登校途中、正門に差し掛かると香穂子の足は一瞬とまった。 視線の先には、女子生徒の中心で微笑んでいる一人の男子生徒が立っている。 朝から黄色い声を出している女子の群れを尻目に、香穂子は無言でその横を通り過ぎ・・・・ようとした。 しかし。 「やぁ、日野さん。 おはよう」 ポン、と肩に手を置かれて・・・思わず香穂子は短い悲鳴と共に手を振り払ってしまった。 その瞬間、周りの空気が冷えていくのが解った。 先程まで柚木を見てはしゃいでいた女子が一斉に非難の眼差しを香穂子に向ける。 そんな雰囲気の中、柚木は苦笑しながら謝罪の言葉を告げた。 「・・・ごめんね、そんなに驚くとは思わなくて」 「・・・・・・・・・」 「大丈夫かい? 鞄も落としたよ」 わざわざ汚れを払ってそれを差し出す。 おそるおそる鞄を受け取ろうと歩み寄った時、柚木は若干顔を近づけた。 そして香穂子にしか聞こえない声量で低く囁く。 『人前であからさまな行動は避けた方が賢明だぜ』 「・・・っ・・・!」 誰のせいで。 喉まで出掛かった言葉を香穂子は寸でで飲み込む。 今、柚木に対して言っても自分の状況を悪くするだけだ・・・・。 代わりに鋭く睨み付けた。 だが、そんなささやかな反抗も周りの癇に障ったらしい。 親衛隊の一人が苛立ちを隠さない口調で香穂子に詰め寄った。 「ちょっと貴女、さっきから見ていれば何なの? 鞄を拾って下さった柚木サマに対して、お礼もなしに睨むだなんてっ!」 「いいんだ、元はと言えば僕が先に軽率な行動をして、日野さんを不快にさせてしまったんだから」 「柚木サマはただ挨拶をしようとして、日野さんの肩を少し叩いただけなのに・・・理不尽すぎます!」 「だけど、良かれと思ってした行動が裏目に出てしまう事だってあるでしょう? 君たちの気分も朝から害してしまったみたいで、本当にごめんね・・・」 「そんな! 私達は柚木サマさえよろしいのなら、別に・・・・ねぇ?」 周りに同意を求めれば一斉に頷く女子達に、柚木はほっとした表情で微笑んだ。 「ありがとう。 そう言ってもらえると助かるよ」 「いえ・・・、お礼を言われる程の事では・・・」 「・・・・ああ、もうすぐ予鈴がなってしまうね。 急がないと」 「あっ、話し込んでしまってすみません! では、失礼致しますね」 そう言って親衛隊の群れはそれぞれの校舎に走っていく。 姿が見えなくなり、周囲に人が居なくなると柚木は香穂子を振り返った。 その表情は、もう先程の 『柚木先輩』 ではない。 「・・・まったくお前はバカ正直というか、融通が利かないというか。 世渡りが本当に下手だね」 「生憎、私は柚木先輩ほど複雑には出来てませんので」 「可哀想にな。 それじゃあ人生の大半は損をするぜ」 「・・・・・・。 私も失礼します」 ムッとした表情のまま、香穂子も柚木の前から立ち去ろうと歩き出す。 しかし、後ろから柚木がさも今思い出したかのような口調で話し出した。 「ああ、そうだ。 今日も練習室を予約するからお前も来るんだよ」 「・・・・何でですか」 「何でって。 お前は俺のオモチャになったんだ、相手をするのはお前の務めだろう」 「それはっ・・・! あの時だけの事でしょう!?」 「まさか。 誰もそんな約束はしてないけど?」 「なっ・・・」 「まぁ、来たくないと言うならそれでも構わないぜ。 ただし・・・明日にはお前と金澤先生の噂で、学校は持ちきりだろうね」 「・・・・脅しですか?」 「取引だよ。 お前が約束を破るというなら、俺も守ってやる義理はないからな」 「・・・・・・・・・」 「解ってもらえたかな。 それじゃ、また放課後にね・・・・日野さん」 そう言って、再び穏やかな笑顔で去っていく柚木の背を、香穂子は睨む事しか出来なかった。 **************** 「・・・・・ヒドイ音」 ポツリと呟いて香穂子は肩からヴァイオリンを下ろした。 もう、かれこれ一時間ちかくは弾いているだろうか。 四限目の授業をサボったので、今はもう昼休みの時間だった。 「本当にな」 突然、背後から聞こえた声に香穂子はビクリとして振り返った。 そこに立っていた人物は、白衣を着た長身の男性教師だ。 「か、金澤先生・・・!」 「よっ。 授業をサボってまでの練習は感心しないぞ、日野」 「どうして、それを・・・」 「おいおい・・・。 お前さんがさっきサボった授業は俺の担当教科だぞ?」 「・・・・・あ」 そう言えばそうだったかも知れない、と・・・今更ながら思い出す。 そんな香穂子を見て、金澤は大袈裟に溜め息をついた。 対して香穂子は気まずそうに肩を竦める。 「・・・まぁいい。 お前さんには後日レポートを提出してもらうからな」 「えぇっ!?」 「冗談だ、バカ」 金澤は笑いながら、くしゃりと香穂子の頭を撫でた。 そして暫くは無言が互いに続く。 やがて金澤は何時になく真面目なトーンで問いかける。 「何か悩み事か?」 「・・・え?」 「さっきの音を聴いたら、そんな感じだったからな」 「・・・・・・・・」 「まぁ、言いたくないなら言わなくても構わんさ」 そう言って金澤は香穂子の隣でゴロンと横になった。 これは大人の余裕なんかじゃない。 金澤自身の優しさだと解っている。 「・・・ごめんなさい・・・」 だけど、どうしても言えなかった。 金澤の為とか、二人の為とか・・・・そんな綺麗な理由ではない。 ただ単に、自分が金澤に知られたくないだけ。 裏切っておいて、でも軽蔑はされたくない。 汚くて浅ましい考えだと自覚はしていた。 それでも・・・・例え嘘を吐いてでも金澤の手を離したくはなかった。 ――― ごめんなさい。 心の中で香穂子はもう一度あやまった。 「あー、もう・・・・んな顔するなよ。 俺の言い方が悪かったか?」 「ちが・・・わっ!?」 否定しようと思ったら、いきなり腕を引っ張られた。 重力に従って金澤の胸の中に納まる。 何事かと思い、顔を上げれば顎を掬われて唐突にキスをされた。 「ん・・・・」 唇同士が合わさるだけの軽いものでは終わらず、舌も入ってきた。 その瞬間、煙草の苦い香りもふわりと運ばれる。 香穂子にとっては嗅ぎ慣れた・・・・とても落ち着く匂い。 しばしの間、その心地よさに酔い痴れる。 「・・・ふ・・・ぁっ・・・」 「・・・・・ごちそうさん、キモチよかっただろ?」 「もうっ、金澤先生!」 香穂子が怒っても金澤は笑って誤魔化すだけだ。 そして、宥めるようにポンポンと頭を軽く叩く。 その顔を見てたら何だか怒る気すら失せて、香穂子もぷっと吹き出した。 「よし、やっと笑ったな」 「えっ?」 「辛い時に無理して笑えとまでは言わないけどな。 でも、ずっと辛そうな顔をしていたら精神的に参っちまうのも早いぞ」 「・・・金澤先生・・・」 「まぁ、なんだ・・・いつでも相談しに来いよ。 お前さんより長く生きてる分、アドバイスくらいならしてやれるだろうしな」 「はい、ありがとうございます」 香穂子は笑顔で頷いた。 相談はきっと出来ないにしても・・・・案じてくれている気持ちが何より嬉しかった。 この恋を護るためなら、どんな仕打ちにも耐えてみせる。 そんな決意が、以前よりも強く胸を占めた――――。 NEXT >> |