「―――あんた、ちゃんと分量の計算したのっ!?」

2月13日の日野家からは若い女性の怒鳴り声が近所に響き渡った。

「したよ!! そしたらこうなったの!」

姉の言葉で同じように苛立った香穂子は負けずに言い返す。

その二人の間にあるものは、茶色の・・・・否、黒い塊だ。

元々はガトーショコラになる筈だったそれは今や見る影もない。

失敗作は一つだけではなく、どんどん蓄積されて積み重なっていた。

完全に焦げきったもの、半生のもの、膨張し過ぎているものや、

膨らまずに潰れたもの等々・・・・・・。

これらは全て香穂子の仕業で、一つまた一つと失敗作を出す度に指導している姉の怒りも

蓄積され、今、限界を超えたのだ。

「私、もう知らないからねっ! 後は一人で作りなさいよ」

「ちょっ・・・お姉ちゃん!!」

「覚えの悪いあんたがいけないんでしょ! ・・・仕事帰りで疲れてるし、もう寝るわ」

付き合ってられない、という風に背を向けられて本当に自室へと戻ってしまった。

失敗作の山を見て香穂子は溜め息を吐く。

明日はバレンタイン当日なのに、どうしても上手くいかない。

チョコを刻む時に包丁で手は切るし、オーブンの金具に触って火傷はするし・・・・。

明日はバレンタイン当日で、柚木が好きだと言ったガトーショコラを渡したいのに、

全く思い通りにいかなかった。

焦れば焦るほど空回りして失敗を重ねてしまう。

頼りだった姉にも見放されて、香穂子一人では難易度の高いガトーショコラを作るなど

到底無理な話だ。

「・・・・諦めるしかないのかなぁ・・・」

俯きながらポツリと呟くと、母親が香穂子の居るキッチンへ来て励ますように肩を叩いた。

「何、弱気な事を言ってるの。 柚木くんに渡したいんでしょう?」

「・・・・・でも、全然うまくいかないし・・・」

「仕方ないわね。 手伝ってあげるから、頑張りなさい」

香穂子はバッと顔を上げると、優しく微笑む母を見てコクリと頷いた。

「・・・・うん。 ありがとう、お母さん・・・!」

再度やる気を起こした香穂子は、やはり失敗をし続けるが、それでも根気良く挑戦する。

次第に失敗の回数は減って、見た目も味も先程より随分と上達した。

「で、出来たぁ!」

そう叫んで香穂子は一つのガトーショコラをオーブンから取り出す。

綺麗に焼きあがったそれは、串を刺しても生地が付着せず完璧な仕上がりとなった。

最後に粉糖をまぶして完成。

「やれば出来るじゃないの。 これで柚木くんに喜んで貰えるわね」

「・・・・喜んでくれると思う?」

恐る恐る尋ねると、母はにっこりと笑って力強く頷いてくれた。

「大丈夫よ! もっと自信を持ちなさい」

「うん・・・!」

香穂子は丁寧にラッピングを済ませると、大事そうにガトーショコラを冷蔵庫へとしまった。












翌日―――。

今朝の登校時に、唯一成功したガトーショコラを渡そうと意気込んだが、当の柚木の

機嫌はあまり良いとは言えない状態だったので、結局渡しそびれてしまった。

次の機会である昼休みの時間は、運が悪い事に生徒会の手伝いで忙しいらしく昼食は

別々に取り、未だ渡していない。

そして、最後のチャンスの放課後こそは・・・・と思ったのだが、案の定柚木の周囲には

女の子達がここぞとばかりに群がっている。

やはり、考える事は皆一緒らしい。

香穂子は遠巻きからその集団を眺めて落胆し、溜め息を吐く。

渡せない事の悔しさもあるけれど、それ以上に香穂子を気落ちさせるものは彼女達が

柚木のために用意したチョコレートだ。

それぞれ綺麗にラッピングしてあるチョコは、どれも有名なブランドもののそれである。

香穂子が用意した少し不恰好なガトーショコラとは比べ物にもならない。

段々と柚木に渡す事が憚られ、香穂子はそっと踵を返した。





「・・・コレ、どうしようかなぁ・・・・」

手には柚木に渡す予定だったガトーショコラを持って途方に暮れる。

数分前には成功作だと胸を張って言えたその贈り物は、今じゃとても滑稽に思えた。

俯いてとぼとぼと歩いていた香穂子は、前方から走ってくる男子生徒に気付かない。

ドンッと真正面からぶつかってしまい、その衝撃で尻餅をついた。

「わ、悪い・・・! 大丈夫か!?」

相手は申し訳なさそうに謝って香穂子に手を差し出す。

「うん、大丈夫だよ。 ありがとう」

誠実なその対応に、香穂子も笑って応える。

「そっか、怪我もないみたいで良かっ・・・・あ!」

彼がホッとした表情を見せたのも束の間、瞬時にその顔色は悪くなった。

怪訝に思った香穂子は彼の視線を辿ると・・・・・・。

「あ・・・」

そこにはラッピングされた一つの箱がぐしゃりと潰れている。

明らかにプレゼント用だと分かるそれは、紛れもなく香穂子が作ったガトーショコラの

入った箱。

「ゴメンっ!! それ、誰かの贈り物だろ・・・!?」

「そうだけど・・・・。 まだ駄目になったって決まってないし・・・」

そう言って香穂子は潰れた箱をそっと開けた。

「どうだった・・・・?」

中を確認した香穂子は、心配そうに様子を窺う彼の方へと振り返る。

「大丈夫だったみたい! 外傷が酷いだけで中身は無事だよ!」

笑顔でそう告げると、彼も曇らせていた表情をパッと明るくさせた。

「本当かっ!? 良かったぁ・・・俺、駄目にしたらどうしようってそればかり・・・・」

「ふふっ、気にしてくれてありがとう」

「本当に無事で何よりだよ・・・。 今日はマジでごめんな?」

香穂子は『気にしないで』という風に首を振れば、彼は律儀にもう一度頭を下げて去った。





辺りには誰もいなくなり、再び箱の中身を覗く。

あの時、小さな嘘を吐いた。

彼が本当に心配そうな面持ちだったから言えなかったけれど、この中は既に

ボロボロな状態でケーキの原型など留めてはいなかった。

「・・・・完全に渡せなくなっちゃった・・・」

軽く言う筈だった言葉なのに、実際の声色は涙まじりで掠れている。

泣くつもりなんか全然ないのに、涙が溢れて止まらない。

「・・・先輩・・・柚木先輩・・・っ・・・」

何だかむしょうに会いたくなって、でも会いたくなくて―――。

自分でも訳が分からず、ただ柚木の名だけを呼び続けた。

「そんなに連呼しなくても聴こえているよ」

突然背後から響いた声に、香穂子は驚いてピクリと身が反応する。

今日一日、探し求めた相手が自分の近くに居る。

しかし、泣き顔を晒す訳にもいかず涙を制服の袖でゴシゴシと拭う。

「強く擦ると目元が赤くなるだろ」

こちらへ近づいた柚木が後ろから香穂子の腕を取り、向かい合わせの形にさせられると

不意に抱き寄せられた。

「ゆ、柚木先輩・・・!?」

柚木の行動にビックリして俯けていた顔を上げると、彼の手によって頭を広い胸へと

沈められた。

「こうしていれば顔は見えないでしょう?」

ちょっとした、さり気ない気遣いだけれど・・・・それが凄く嬉しい。

柚木の背に腕を回して自ら頭を押し付けると、慰める様な手つきでそっと髪を梳いてくれる。

そんな柚木の甘やかすような仕草が、香穂子はたまらなく好きだった。

香穂子がその行為に身を委ねていると、柚木は傍にあった箱に目を向ける。

「なんだ、ちゃんとあるじゃないか。 お前からのチョコレート」

「・・・・!!」

身を離して箱を振り返ると、それは既に柚木の手中にあった。

ボロボロな中身まで見られてしまい、香穂子は居たたまれない気持ちになる。

けれど、柚木の表情は優しいまま変わらない。

それどころか、少しだけ嬉しそうにも見える。

「これは、ガトーショコラ?」

香穂子は項垂れながらも、コクリと小さく頷いた。

「でも、こんな状態だし・・・捨てますから・・・・」

「どうして? 俺に作ってくれたやつだろ?」

「そうですけど・・・」

「なら、これは俺のものだ。 お前に捨てる権利はないね」

そう言って柚木はガトーショコラの欠片を一つ摘まんで食べた。

一瞬、理解が出来なくて香穂子は目を見張っていると、彼は『意外と美味い』と呟いて

更にもう一つ、摘まんで食べる。

「だ、ダメですっ!!
こんなの食べなくても、他に高級そうなチョコレートが沢山あるじゃないですか・・・っ!」

「そうだな・・・。 でも俺にとっての本命チョコは、これ一つだけだよ」

「・・・・え?」

「こんな行事、本当は憂鬱なだけだが・・・お前から貰うチョコレートなら悪くない」

「・・・柚木先輩・・・・」

そんな事を言われたら、もう『捨てる』なんて言えなくなってしまった。

けれど、やはり後ろめたくて―――。

「お腹壊れちゃいますよ・・・・?」

出てきたのは、そんな言葉だった。

「お前に陰で泣かれるよりは断然マシだよ」

柚木は少し笑って、でも優しい眼差しで言われ、止まった涙がまた溢れ出す。

「仕方のない子だね・・・・」

笑みを苦笑に変えた柚木は指で香穂子の顎を掬い、その涙を唇でそっと拭う。

啄ばむような優しい口付けは頬や額にも降り注ぐ。

次第に唇は降下して、香穂子の唇に行き当たる。

「香穂子、好きだよ・・・」

まるで秘め事のように柚木は囁いて互いに口付けを交わす。

そんなキスは涙の僅かな塩分と、チョコレートの甘い味がした―――。









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★あとがき★

試験に追われながらも、無事バレンタインにUP出来たー!!
こんな板ばさみ嫌だ・・・・・・。
何はともあれ、Happy Valentine's Day♪