「・・・・本当にもう大丈夫なのか?」



翌朝、流石に柚木も二日連続して仕事は休めないので帰る事となった。

帰り支度を終えた彼は廓の玄関で、もう何度目かの確認をする。

それに対して、安心させるように香穂子はにっこりと頷いた。




「本当にもう大丈夫ですよ。 昨日は看病して下さって有り難うございました」

「・・・お前ね、ただの風邪だからって侮るんじゃないよ」

「はい」

「その微熱だって、ずっと治ってないだろう?」

「でも今日は平熱ですよ」

「それは昨日、一日中安静にしていたからに過ぎないよ」

「・・・確かに、そうかも知れませんけど・・・」




香穂子が言葉に詰まると、柚木はいつになく真剣な顔になった。




「俺は心配して言っているんだ。 それは判るよな?」

「・・・・はい」

「でもね、それはお前だからなんだよ」

「・・・私だから?」

「ああ。 今も昔も、俺が本当の意味で気に掛けているのは、いつだってお前だけだ」




そう言って柚木は香穂子を引き寄せ、不意打ちで唇を奪う。

普段ならば、玄関先での口付けは拒否するのに・・・・今は抵抗など思い付かなかった。

何秒、という時間が永遠にも感じられた。




「・・・ん・・・・ふ・・・っ・・・、はぁ・・・っ」

「・・・・・休めとは言わないけれど、無理だけはするな。 いいね?」




香穂子は顔を火照らせたまま、コクコクと頷く。

それを見て、柚木は 『いい子だね』 と囁いて額に再び口付けた。




「見送りは此処まででいいよ、身体に障るからね」

「分かりました。 ・・・・気をつけて下さいね」

「ああ、また近い内に来るよ。 じゃあな」




門が閉められ、柚木の気配が消えても香穂子は暫くそこに立っていた。















** 暗 雲 **










「・・・・おや、香穂子じゃないの」



振り返ると、番頭新造である千歳が立っていた。

まだ見世を開けるには早い時間なので、掃除用具を片手に持っている。




「柚木の若様はお帰りになったのかい?」

「ええ、先程」

「随分と早い時間じゃないか。 まだ開店前だよ」

「昨日は無理に宿泊なさったから・・・・本当は忙しいはずなのに」

「へぇ・・・、ご執心だねぇ。 いい客を捕まえたじゃないか」

「ち、千歳さんっ! 私はそんな風に・・・っ」




言いかけて、ハッと口を噤む。

――― 『客は惚れさせても、客に惚れるな』 。

それが花音楼の・・・・いや、遊郭で働く女たちの暗黙のルール。


中には客と恋仲になり身請けされ、幸せに暮らす遊女も居るには居る。

だが、それは本当に一握りの話だ。


大半は、間夫(まぶ)となった男に貢いで自身の借金を増やすか、

例え身請けされても次第に飽きられ、捨てられる遊女の方が断然に多いのだ。

そして、前の廓に戻る事も許されていない女達の末路は、格安の小見世で再び身体を売るか・・・・

夜鷹となり、自身で男を誘惑し小銭を稼ぐという道しかないのだ。


その事実を遊郭で働いている以上、香穂子も知らない訳ではない。

だからこそ、廓の人間に 『柚木が好きだ』 と、表立って言えるはずもなかった。


だが、勘の鋭い千歳にはお見通しだったらしい。




「あんた、惚れているのかい? 若様に」

「えっ・・・! いえ、そんなこと・・・・」



香穂子の否定は見事に無視をされ、千歳は大きな溜め息をついた。



「やれやれ・・・・。 あたしはあんだけ、あんたに教えてきたのにねぇ」

「・・・・・・・・・・」



これはどう否定しても白々しくなると判断し、香穂子は黙る他に術はなかった。

どのみち、事実なのだから千歳のしつこいお小言くらいは覚悟の上だ。

だが、いくら待ってもそのお小言がない。

香穂子はそろそろと顔を窺うと、何やら千歳は考え込んでいる風だった。




「あの・・・、千歳さん?」

「・・・・まぁ、一癖ありそうな気ぃするけど・・・悪い感じはしないんだよなぁ・・・・」

「え? 一癖・・・・?」

「若様の事だよ。 万一、あんたを身請けするって奴がいたら間違いなくあの方だろうからね」

「・・・・・はぁ」

「だから、その前に私がこの目で判断するのさ」

「ええっ、千歳さんが!?」

「・・・なんだい、不服かい? これでも、あたしの眼力は現役時代から衰えちゃいないんだよ」

「そういえば、千歳さんの現役時代の位って・・・・」

「太夫に決まってんだろ。 お職だって譲った事はないね」

「・・・・・流石です」

「だから、あたしは色んな客を見てきてんの。 変な奴に可愛いあんたを渡しゃしないよ」




そう言って玄関の掃除を始める千歳は、思い出したように再びその手を止めた。




「あ、そうそう! ご執心と言えば、昨日のお客さんが改めてあんたに入るって」

「えっ・・・、昨日って予約での方ですか?」

「ああ。 昨夜は若様が流連けしたから入れなかったろう」

「だから今日もいらして・・・・?」

「みたいだよ。 最初は心配もしたけど、あんた最近人気だねぇ!」




嬉しそうに千歳が語る反面、香穂子は素直に喜べなかった。

以前ならば、予約と聞いただけで自然と笑みが零れたのに・・・・・。

複雑そうな表情の香穂子を見て、千歳は苦笑する。




「・・・・まぁ、誰だってこんな仕事は嫌だろうけどさ」

「あ! いえ、そんな積りじゃ・・・・」

「いいんだよ。 でもね、この世界に入った以上は腹括んないと」

「はい・・・すみません・・・」

「解りゃあいいんだよ。 ・・・・って、そういや熱はもう下がったのかい?」

「ええ、お陰さまで」

「なら良かったけど、念の為に医者呼ぶからね」

「えっ? そんな・・・・」




大袈裟だと断ろうとしたが、不意に今朝の柚木が思い出された。

あんなに心配されたのは初めてだったので戸惑ってしまったが、それでも嬉しかった・・・・。

香穂子は考えを改めて、千歳の言葉に頷いた。




「わかりました、お願いします」

「ああ。 じゃあ、朝餉が済んだら香穂子の部屋へ先生をご案内させるから」

「はい」

「じゃあ、少し寝ておいで。 長話しになってすまなかったね」

「いえ、大丈夫です。 それじゃあ、おやすみなさい」




千歳に一礼し、再び香穂子は寝所へ向かった。










**************










それから朝餉も終え、少しうとうとしてきた所で医師が控えめに声を掛けた。



「香穂子さん、失礼しますよ」

「あ、はい。 宜しくお願いします」



入ってきたのは、初老の穏やかそうな男性だった。

先ずは簡単に食生活と睡眠時間を聞かれ、次に症状の事を聞かれた。




「咳と微熱は、ずっと治らないですか?」

「ええ・・・・、咳は酷くなると痰に血が混じる事もあって・・・・」

「・・・・・そうですか」

「先生、私ただの風邪なんですよね?」




香穂子は縋る思いで医師を見つめる。

今まで自分が診察を拒否し続けてきたのは、その答えが明確になるのが怖かったからだ。

けれど、もう周囲に心配を掛ける事は出来ない。

怖い気持ちは確かにある。 だが、今日はっきりと医師が重い病ではないと否定してくれたら・・・・・。

香穂子は、その言葉だけを願った。


しかし、医師の表情は硬いままだ。




「風邪にしては症状が長すぎますね。 もしかしたら、肺炎を起こしている可能性もあります」

「・・・・肺炎」

「まぁ、しかし早期に治療すれば問題はないでしょう」

「そうですか・・・!」




『問題はない』 という言葉で、香穂子は全身の力が抜けるくらいホッとする。

だが、医師の話はこれで終わりではなかった。




「・・・・けれど、あともう一つ風邪に似た病があるんですよ」

「それは・・・・?」

「・・・・労咳です」

「ろう・・・が、い・・・・」

「もしも、こちらの場合でしたら・・・今の医療では・・・」




労咳は、今で言う 『肺結核』 という病気だ。

香穂子も医師に説明されずとも、名前だけは知っていた。

それに・・・・・、罹ってしまったら死ぬまで治らない事も。




「わっ・・・私は・・・・どっちなんですか!? 先生・・・!!」




香穂子は取り乱し、思わず医師の仕掛けに縋りついた。

頭の中では 『死への恐怖』 それしかない。




「落ち着いて下さいっ・・・・まだ、決まった訳では無いですから!」




医師の真摯な瞳と視線が合い、香穂子は徐々に落ち着きを取り戻した。

縋りついていた手を放し、ゆっくりと褥へと戻る。




「・・・・すみません・・・お見苦しいところを・・・・」

「いいえ、それが通常の反応ですから・・・」

「・・・・・・私は、やっぱり労咳なんですか?」

「そればかりは、今の所は何とも・・・・。 少し様子を見ましょう、薬をお出ししますからね」

「・・・・・はい・・・・」




香穂子は小さな声で返事を返すのが精一杯だった。

今はまだ・・・・何も考えられない。

自分が死ぬかもしれない、という事以外は―――・・・・。










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