不相応な恋をしている、と 解っていた筈だった。

誰に何を言われても挫けない、と 自分自身に誓っていた。


けれど、私は 『思い知らされる』 辛さをまだ理解していなかった―――。










* * D i s t a n c e * *










「お邪魔します」



玄関の前で言った挨拶に、返事を返す者は誰も居なかった。

強いて言うならば、香穂子をこの家まで連れて来た柚木本人だけ。

それもその筈。

香穂子がこの家へ 『柚木の恋人』 として上がれるのは、家の者が留守の時しかないのだから。

その事を少し寂しく感じる時もあるけれど、柚木の事情は知っているから香穂子は何も言わない。



「・・・・・」



何もかもが広大なこの屋敷を黙って見渡していると、自分を卑下する訳ではないがちっぽけに思えてならない。

思わずボーっとしていたら、後ろから柚木が入ってきた。



「何やってんの、靴も脱がないで」

「え? あ・・・」



言われて気付いた香穂子は慌てて靴を脱いで、家に上がった。

それを呆れたように溜め息をつくが、眼差しはひどく優しい・・・・香穂子だけに見せるものだ。



「お前の考えそうな事は大体予想つくけどね。 でも、家に誰も居ない時くらいは堂々と胸を張っていろよ」

「・・・柚木先輩・・・」

「ほら、寒いんだから部屋へ行くぞ」

「はい・・・!」



先にスタスタと前を歩いていく彼の隣りへ小走りで駆け寄った。

その香穂子の表情は先程の憂いを帯びたものではなく、笑顔だった事に人知れず柚木は安堵する。

彼女の朗らかな笑顔を守るのは、いつだって自分でありたい。

今はこうしてさり気なく励ましてやるのが限界だったとしても。












「うわぁ・・・先輩の部屋から見えるお庭すごいですねー!」


まるで京都にある寺院の庭みたい、と 呟く。

その言葉に柚木は苦く笑う。



「・・・そんなに立派なものじゃないよ。 まぁ、俺もこの庭は気に入っているけどな」

「鹿おどしの音も耳に心地いいですもんね」

「ああ、夜になると池の水面に月が映っていて更に綺麗だよ」

「いいなぁ・・・私も一度でいいからその光景を見てみたいです」



そう何気なく言うと、後ろに立っていた柚木が不意に腰を抱き寄せてきた。

驚いて振り向くと目の前には彼の美貌があり、その表情はうすく微笑んでいる。

それだけで体温が上昇した香穂子の耳元で柚木の低い吐息交じりの声が響く。



「それは、俺と夜まで一緒に居たい・・・・そういう事?」

「えっ!? ちが・・・っ」

「違うの? 香穂子はそう思ってくれないわけ?」

「そ、そうじゃなくて・・・」

「ふふっ、耳まで真っ赤だよ」

「先輩の所為ですっ」

「・・・・少し黙って」



言葉短くそう言って、柚木は香穂子の顎を少し上向きに固定すると唐突にキスを仕掛けてきた。

始めはじゃれるような唇を合わせるだけのキス。

次に舌でノックされ口を開くよう促されて、柚木の舌を迎え入れる。



「・・・ん、ふぅ・・・っ」



ちゅく、ちゅく・・・という水音が静寂を保つ部屋に響いているみたいだ。

舌の表も裏も全てをまさぐられ、時々ちゅっと軽く吸われる。

普段から上品な立ち振る舞いの彼からは想像も出来ないくらいの情熱的な口付け。

香穂子はそれに応えるのが精一杯で、柚木の腕に縋りつく。

崩れ落ちそうになる腰を柚木が更に強く抱き寄せて支え、そっと唇を解放する。

まるで名残を惜しむかのように、二人の間を銀糸が繋ぐ。



「・・・好きだよ、香穂子・・・」

「私も、大好きです・・・」



穏やかなバリトンの声が心地よくて、香穂子も背を凭れながら頷いた。

幸福に身を委ねていると、突如柚木の肩がピクンと何かに反応する。



「・・・柚木先輩?」



香穂子から僅かに離れて、心底恨めしそうな険しい表情の柚木を見て途端に不安になった。

大抵、彼がこんな表情をする時は家の事情が絡んでいるから――――・・・・。

そして、香穂子の予想は見事的中した。



「・・・・ごめん、家族が予定より早く帰ってきたみたいだ。 お前はこの部屋で少し待ってて」

「でも・・・」

「大丈夫、祖母たちに顔見せてくるだけだから。 誰もこの部屋には入れやしないよ」



香穂子が小さく頷くのを見て、柚木は襖に手を掛けた。

しかし、廊下から小走りの足音が聞こえ開けるのを止める。



「お兄様、大変よ・・・!」



外からは少女の声が聞こえ、それには香穂子も聞き覚えがあった。



「お帰り、雅。 そんなに慌ててどうしたんだい?」



雅と香穂子は何度か顔を合わせている。

そして、この家の中では柚木と付き合っている事を知っている唯一の人物だ。

彼女は自分達の仲を頭ごなしに否定する訳でもなく、かといって認めている訳でもない。

あくまでも中立的な目で見ているのだった。


普段から、とても中学生とは思えないくらい大人びている雅は珍しく慌てた口調で言う。



「ここじゃおばあ様に聞こえてしまうわ、中に入れて下さらない?」

「ごめん、それは出来ない」

「お部屋に誰かいらっしゃるの?」

「・・・・・ああ」

「・・・もしかして、玄関にあった女性の靴は――― 香穂子さん?」



柚木の妹ゆえ勘が鋭い雅はズバリと言い当てる。

その問いかけに柚木は答えない。

沈黙を肯定と取った雅は溜め息をついた。



「・・・・解った、今日ばかりは私も協力するわ・・・本当に非常事態だもの」

「有難う、雅ちゃん・・・!」

「すまないね、感謝するよ。 それで非常事態って、おばあ様が帰ってきた事かい?」

「それならここまで慌てないわよ。 ・・・・毬絵さんがいらっしゃったの」

「・・・! そう・・・」



一瞬だけれど、柚木の表情が強張ったのを香穂子は見逃さなかった。

聞かなければ良いのに、気付いたら口に出していた。



「毬絵さんって・・・?」

「・・・・先日お見合いをしたお嬢さんだよ。 うちの祖母がいたく気に入ってしまってね・・・・」

「今日は偶然会ったのだけれど、珍しくおばあ様ご自身が家へ招いたのよ」



それでは遠くない未来に柚木の祖母が 『毬絵さん』 との婚約をきっと取り付ける事だろう。

香穂子は少し顔を俯けた。

泣いてしまいそうだった所に、柚木の大きな手が優しく頬を撫でる。



「大丈夫だから」

「・・・先輩・・・」

「お兄様、もう直ぐでおばあ様たちがいらしてしまうわ!」

「ああ、今いくよ」



そう言って、柚木は今度こそ襖を開いた。

何故か胸騒ぎがして香穂子は柚木の裾を掴もうと手を伸ばす。

しかし、それは掠りもせずにパタンと襖が閉まる音だけが室内に響く。










**************









柚木がこの部屋を出て、どのくらい時間が経っただろう。

香穂子は一人、壁に凭れて膝を抱えて彼の帰りを待っていた。



「・・・・今なら平安時代でいう 『側室』 の人の気持ちが少しだけ解る気がする・・・・」



馬鹿な事を小さく呟いて、自分で嗤う。

そうしていたら、今まで全く聞こえなかった人の話し声が徐々に聞こえてきた。

香穂子は焦るが、状況を確認しなければと己を律し、襖に耳を近づける。





「いつまでも居間にいるのも何ですから、梓馬・・・貴方の部屋へ毬絵さんをお通ししなさいな」

「―――えっ・・・」

「まぁ、宜しいのですか?」

「ま、毬絵さん! それでしたら私のお部屋を是非見て頂きたいですわ」

「・・・・雅さんのお部屋?」

「雅、割り込むのはおよしなさい。 梓馬、貴方も異論ありませんね」

「・・・いえ、その今は・・・」

「何か不都合でもあるのですか?」



僅かに眉をひそめた祖母の顔を見て、柚木は 『人の気も知らないで・・・』 と 心の中で愚痴を零す。

そして目の前にある自室の襖に視線を向ける。

中には香穂子が居て、きっとこの展開に困惑している事だろう・・・・。

こんな面倒な事に彼女を巻き込む積もりじゃなかったのに、と 先にも立たない後悔をする。

何かこの状況を切り抜ける良い口実はないものか・・・と、柚木が思考を巡らせる前に祖母が再び口を開く。



「梓馬」



先程より強い口調で名前を呼ばれ、柚木は覚悟を決めた。

例え修羅場になろうとも、自分は香穂子を選ぶ―――、と。



「すみません、今・・・お通しします」





しかし。



そこに香穂子は居なかった。





「えっ?」



驚きに瞳を見開いて、先に声を上げたのは雅だった。

柚木は声こそ出さなかったものの、雅以上に驚いている。

窓から庭へ避難したのかと二人に気取られない程度に確認すれば、何処も動かした様子はない。

それならば何処へ・・・と、内心焦って部屋を見渡すと押入れの襖が僅かに開いていた。

そこに香穂子が居ると解った柚木は心の底から安堵する。

修羅場を迎えずに済んだ事ではなくて、香穂子が自分の前から姿を消していない事実に・・・・・。










(・・・セーフ・・・!)


香穂子は布団に挟まれながらも、ホッと胸を撫で下ろす。


部屋の前で揉めている間に何処か隠れられる場所を探し、たまたま目に入ったのが押入れだった。

開けて見てみると布団と壁の間に僅かなスペースがあって、人一人くらいは何とかイケると思ったのだ。

むりやり身体を押し込んで、襖を閉めた所で丁度4人が部屋へ入ってきた。

まさにギリギリセーフ。



まだ心臓がバクバクしているが、それもじきに治まった頃には祖母と雅は部屋から退出していく。


(・・・・私も出来る事なら、この部屋から退出したいなぁ・・・・。)


二人の談笑している姿を見ていると、何だか惨めになってくる。

勿論、柚木が自分を忘れているのではない事は充分解っていた。

現に、襖の隙間からチラチラと瞳がよく合うから。

それでも、本当は自分が柚木の隣で笑っている筈だったのに・・・・と、思うと遣る瀬ない。

香穂子は暗い押入れの中で、再び膝を抱えて顔を伏せた。

もう二人の笑い声も、寄り添いあう姿も、見たくはないし聞きたくもなかった。



「・・・あら、もうこんな時間。 そろそろ失礼致しますね」

「そうですか、ではお見送りします」



漸く帰る気配をみせた毬絵の声を聞いて、香穂子は伏せていた顔を上げる。

柚木も座っていた腰を上げようとしていた所だった。

それを毬絵が不意に呼び止める。



「あの・・・」

「ん? どうしま・・・」



一瞬、柚木の言葉が止まった。

香穂子も何が起きたのか理解出来なかった。

そんな中、毬絵だけが綺麗に・・・そして頬を僅かに染めながら微笑んでいる。

唇に温かいものが掠め、柚木は何かを認識するように指でなぞった。

香穂子はもう見ていられなくて、柔らかい布団を押し退けながら身を捩って襖に背を向ける。

耳も手で塞ぐがあまり効果はなく、会話が聞こえてしまうのが悲しかった。



「ごめんなさい、女の私からなんてはしたないけれど・・・私の気持ちを知って欲しかったものですから・・・」

「・・・貴女の気持ちは嬉しいのですが・・・」

「言わないで下さい、知っているから・・・。 今日は伝えられただけで満足です。 お見送りは必要ありません」

「解りました、お気をつけて」

「ええ、お邪魔しました」



そうして、徐々に足音が遠ざかり完全に聞こえなくなった。

それでも香穂子は微動だにせず、体勢も崩さない。

暫くして柚木が押入れの襖を開けた。



「香穂子、悪かったね。 もう出て平気だよ」

「・・・・・」

「聞こえてる?」

「・・・・・」

「・・・お前が自分で出ないなら引きずり出すまでだな」




柚木は香穂子の両脇に手を通し、本当に押入れから引きずり出した。

そして彼の正面に立たされる。 だが、顔は俯けたままだ。



余りにも絵になり過ぎている二人を見ているのは胸が痛かった。

まるで、お前の居場所はここに無いと言われたみたいで。

こういう時、一般庶民とそうでない者の埋められない距離を感じる。




それに、たかが唇が一瞬触れただけのキス。

しかし、見た目も家柄も全てが釣り合った二人のキスは、衝撃が大きかった。

香穂子は今できる精一杯の笑みを無理やり浮かべて柚木の方を振り返る。




「ねぇ、先輩・・・・私達もう終わりに」

「しないよ」



言い終わらない内に柚木が言葉を重ねた。

まるで言い出すのを予期していたかのように。



「・・・どうして? 私と別れたって先輩は何も・・・」

「困らないって、本当にそう思うのか?」



怒りを抑えた硬質な声で、香穂子の腕を乱暴に掴む。

痛みで顔を歪めても力を緩めてはくれず、身体を壁に押し付けられる。



「―――ぃ、た・・・っ! 放して下さいッ」

「答えろ!」



滅多に声を荒げたりしない彼が本気で怒鳴っている。

それに怯んだ香穂子は思わずセーブしていた感情の枷が外れてしまった。

柚木と同じくらいの声量で怒鳴り、涙が溢れる。



「だって・・・っ! 本当は私が今日一日先輩の隣に居る筈だったのに!
それに、私なんかより・・・あの子の方がずっと先輩に釣り合っているし・・・っ」

「―――馬鹿」



そう言って柚木は香穂子の腕を引き寄せて、倒れた身体を強く抱き締めた。



「変な我慢なんかしてるなよ。 不満があったら今みたいに言って良いから」

「・・・でも、こんな我侭ばっかり言う女は嫌でしょ・・・?」

「嫌じゃない。 お前が俺から離れていく事に比べたら全然嫌じゃない。
だからもう・・・別れるなんて二度と言うなよ・・・」

「ごめ、なさ・・・っ」



涙声で謝罪すると、柚木は上体を起こして香穂子を上から睨み付けた。



「それは何に対する謝罪?」

「・・・色々感情に任せて言っちゃったから・・・その事について」

「ああ、そんなこと・・・・。 また 『別れる』 とか言い出すかと思った」

「ふふ、もう言いませんよ・・・」

「是非そうして頂きたいね。 それから、お前は俺と釣り合わないって言ってたけど・・・それ、逆だぜ」

「・・・え?」

「こんな足の引っ張り合いみたいな世界はお前に似合わない。
けど、俺はお前を手離したくはないから。 香穂子を日陰へと引き止めているのは俺なんだよ」



苦々しげにそう言って、香穂子の肩口に顔を埋める。

こんなにも弱っている彼を見るのは初めてだった。


しかし。


ポツリと小さく呟かれた言葉に香穂子は瞳を大きく見開かせる。



「・・・・今、なんて・・・・」



その瞬間、止まりかけた涙がもう一度溢れ出した。



「香穂子? 何で泣いて・・・」

「嬉しいの。 お願い、もう一回・・・もう一回だけ言って下さい・・・」



『好き』 という言葉はもう何度も囁かれたけれど、この言葉を言われた事は一度もない。

『好き』 よりも深い意味を持つ、最上級の告白―――。



「香穂子が俺の側にずっと居てくれるなら、何度だって囁いてあげる・・・・。
お前を・・・お前だけを、愛している――――」

「私も愛しています・・・・」




そして、二人はどちらともなく長い口付けを交し合った・・・・・。









*************

★あとがき★

常盤かえで様に捧げます。
リクでは 『甘々』 でしたのに、うっかりお家ネタになってしまって申し訳御座いません! (土下座)
かえで様のみ、お持ち帰り可ですので・・・煮るなり焼くなりしちゃって下さい。
なんか、色々すみません・・・!